ガーナの植民地時代の歴史~ガーナの文化紹介[1]~

はじめに
Etse sen(元気ですか)? Adjoaです。私は、2014~2017年までの2年6ヵ月間、青年海外協力隊としてガーナに派遣されていました。先日、ガーナについてもっと勉強してみようと思い、ガーナの旅行ガイドブック『Official Ghana Tourist Guide 2013-15』にある、植民地時代についての説明を和訳してみました。自分の記録用も兼ねて、こちらに共有します。
この本は日本語版未発売のはずです。ガーナのことについて調べている方のご参考になれば幸いです。
ガーナの植民地時代の歴史
首都の移転
大西洋奴隷貿易は、主に1517年から1874年までゴールドコースト(現ケープコースト)で行われました。ヨーロッパ諸国は徐々に撤退し、1872年までにイギリスだけが残りました。彼らは国の植民地権を引き継ぎ、5年後に首都をケープコースト(Cape Coast)からアクラ(Accra)に移しました。
奴隷制の廃止と国の発展
奴隷制の廃止により、他の商品の合法的な貿易が可能になりました。キリスト教の宣教師たちは、義務教育、技術訓練、カカオなどの経済作物の実験的導入を通じて、国の初期の発展において主導的な役割を果たしました。ガーナはパーム油、コーラの実、象牙、そして天然ゴムの重要な生産国になりました。
しかし、ガーナの経済にとって最大の後押しは、世界有数のカカオの輸出国になったときでした。これは、ビオコ島(旧フェルナンド・ポー/現赤道ギニア領)からカカオ豆を持ち帰ったガーナ人、テテ・クワシ(Tetteh Quarshie)による栽培が成功した後のことです。カカオの輸出は、ガーナに繁栄と発展をもたらしました。
ガーナでは金、ダイヤモンド、マンガンといった鉱物資源が採掘され続けました。また、国の森林は貴重な木材を産出していました。経済の中心地であったタコラディ(Takoradi)には、1928年に新たな港が建設されました。すぐに鉄道が建設され、首都アクラと接続されました。(※2017年時点では、この鉄道は首都近郊の一部区間のみ運行)
また、空の便の導入により、1973年までにヨーロッパと西アフリカ間の貿易が大幅に改善されました。英国帝国航空とエールフランスの飛行船がタコラディ港との運航を始め、1941年に米国空軍基地が建設されると、空港の開発が促進されました。道路や橋、病院も建設されました。 中継局、電話が急速に発展し、内陸郵便サービスが確立したことで、1963年には無線局が開設して通信が改善されました。
教育
教育は最優先事項と考えられるようになりました。バーゼル宣教師は1848年までAkropong-Akuapemに教員養成大学を設立し、ウェスリアン宣教師はケープコーストに多くの中等学校を開設しました。教育部門における重要な進展の1つは、自国語の使用に重点を置いたことです。1853年から1869年の間に作成された教科書には、アカン語、ガ語、エウェ語が適用されました。
1972年までに、最初の高等教育機関がアチモタ(Achimota)に設立され、1948年に国で最初のレゴン大学が開校しました。それまで、優秀な学生にはさらに勉学を続けるために、留学するための奨学金が与えられました。
かくしてゴールドコーストは、イギリス植民地の繁栄と啓蒙のモデルになりました。ガーナの人々は優秀な学者となり、国際舞台で重要なポジションに就くようになりました。元国連事務総長の故・コフィ・アナン(1938-2018)もその1人です。
独立
20世紀前半のカカオ価格の下落は、農民による貿易ボイコットへと発展し、ついには植民地政府を揺るがしました。 新しい中産階級と多くの労働者たちの間の強い民族主義的な感情は、政府に圧力をかけました。 政府は1957年3月6日に完全な独立を認め、国をガーナと名付けました。
参照元
『Official Ghana Tourist Guide 2013-15』(Amazing Africa Ltd,) P24