大伯父の「海軍志願兵回想録」

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はじめに

オホティセン(元気ですか)? Adjoaです。

先日、家の物置を片付けていたところ、『海軍志願兵(至 昭和十九年十月~至 昭和二十八年八月)』という小冊子を発見しました。どうやらそれは、私の大伯父が海軍志願兵だったときの体験を綴ったもののようです。当時の様子がわかる大変貴重な史料であると思われるので、こちらに転記します。

私のブログを通じて多くの方に大伯父の体験談を共有できればと思います。

※個人名は伏せてあります。

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『海軍志願兵(至 昭和十九年十月~至 昭和二十八年八月)』

〇武山海兵団

*受験

昭和十八年十一月 満十四歳 福島尋常高等小学校高等科二年 在学中

当時は国民皆兵の時代、皆が軍人に憧れて生徒の多数が志願に応じた。同級生約八十名中、約三十名が志願したが、身体検査を主体に行った結果、合格者は予想外に少なく八名であった。

*招集

通常では合格者に対して招集通知はその年の暮れ迄に来るはずが、来なかったので昭和十九年三月小学校高等科卒業を控え木曽山林学校を受験合格し、昭和十九年四月入学した。ところが、その年九月に至り十月十日に武山海兵団に入隊せよとの通知があった。家では稲刈りの最中であった。

*入団

出発に際しては、日の丸の旗に皆さんの寄せ書きを頂き、これを襷掛けにして着けた。当時の日の丸の旗は市販に無かったので、人絹の白布と赤の絹地を買い家で作った。また、女性の皆さんからは千人針の胴巻を作って頂き身に着けた。

十月九日には、水無神社にお参りして武運長久を祈願、福島町役場前にて壮行会が行われ、同級生の安田君と二人で町長の激励を受け、自分が答礼の挨拶をした。また、夕方より自宅で親戚一同が集まり門出、壮行会が行われ、夜の臨時列車で福島駅から出発、見送り人多数。翌朝神奈川県逗子駅で下車し葉山を経由し約十五キロの道程を徒歩で武山海兵団へ到着した。日中暑い中、延々長蛇の列であった。

昭和十九年十月十日、武山海兵団へ入団、満十五歳、兵籍番号 横志水 八六三四五号
海軍二等水兵 任命

所属は、第三十七分隊 第三教班 教班長はF二等兵曹。一教班は十八名。ここの先任教班長が木曽開田村出身のN一等兵曹、同郷のよしみで大変お世話になった。後にこの人の長男M君の所へ妻Aの従兄弟であるMさんが嫁いでいる。

*教科・訓練

一般教養、軍事訓練、ボート(カッター)の漕法など、海兵団では総てが班ごとの競争で負けると罰を受け兵舎の周りを何回も走らされたり、精神棒という野球のバットで尻を強く殴られた。一人の責任でも罰は班全員で受けた。時間は厳格で物ごとの始まりは十五分前、五分前の予告から行動が始まる。自分は背丈が低いほうだったので夜、寝るときのハンモックを梁に掛けるのが、なかなか届かず苦労した。ボート(カッター)の班ごとの競争も厳しかった。

*辻堂演習

昭和十九年十一月二十二日より二十五日にかけて鎌倉海岸にて紅白戦の実習を行った。途中、鎌倉の大仏さまにお参りし辻堂の砂浜へ到着。小銃(伊式銃)を使っての模擬戦争はとても面白かった。

*海兵団 卒業

昭和二十年一月 海軍一等水兵 任命

〇砲術学校

*二十五ミリ対空機銃の操作を習う

館山砲術学校の分校である、横須賀、衣笠訓練所にて機銃の操作を習う。機銃の打ち針(撃針)は時折り破損するので、そのため打ち針交換が必要。この訓練を行うのだが、バネが強く腕の力の弱い我々にはたいへんな苦労であった。

昭和二十年二月から三月迄、 終わって普通科砲術章を受ける。

〇部隊配属

*横須賀海軍警備隊

昭和二十年四月より、

第一〇二部隊 相模機銃砲台(寒川海軍工廠 守備隊) 二十五ミリ機銃員

海軍工廠の周囲、東西南北にそれぞれ守備の砲台があり、分隊長以下六十名程の兵士が各所に分散していた。場所は寒川神社のすぐ近くにあった。昭和二十年五月頃、兄実良が寒川まで面会に来てくれた。その時、腕時計をもらった。兄はその日の夜、帰りに八王子で米軍の空襲爆撃に会い交通機関泊まり大変苦労したと言う。

昭和二十年七月頃に入ると米軍は航空母艦に艦載機(グラマンF6F・ロッキードP五一など)を乗せて太平洋の日本近海に近づき軍需工場を目指してしきりに戦闘機を飛ばしてきた。我々の操作する二十五ミリ連装機銃は広さ八坪程の円体壕の中にあり、一つの砲台には七名(砲台長・射手・旋回手・一番手 二人・二番手 二人)が担当。自分は二番手の一人で、円体壕の保管庫から弾の入った弾倉を運び出す役で、一番手がそれを機銃に装填する役であった。弾倉(二十五ミリ弾が十個位入り)はとても重かった。

米軍機の襲来は高圧線の下を潜る程の低空飛行で十三ミリ機銃を連射して襲ってくる。すぐ屋根の上すれすれに飛んでくるので操縦士の頭がよく見えた。当方はそれを迎え撃ちするが、なかなか命中しない。時には当たって敵機は黒煙を噴いて太平洋方面へ逃げて行った。この様な瞬間は自分の意識は無我夢中、顔面蒼白。たとえ弾が当たったとしても、痛いという感覚は無いと思った。幸い我々に人的被害が無かったので助かった。一戦が終わって見れた付近の畑では、野菜物トマトやウリ・カボチャが弾に当たり傷ついて落ちていたりした。重爆撃機のB二十九もしきりに来たが、これは高度が高く五千米以上か、我々の機銃ではどうにも手が届かずただ、見ているだけであった。

〇広島に新型爆弾

昭和二十年八月六日、広島にB二十九から新型爆弾が投下され、被害甚大、各自防備のための個人用のタコ壺を掘るよう指令が出た。(後にこれが原子爆弾である事がわかる)

〇終戦

昭和二十年八月十五日、正午にラジオで重大放送があるので皆聞くように、との指令があり、これを聞く。

雑音多く内容よく聞き取れなかったが、だれ言うとなく戦争が終わったと言う。これを知って特に驚きや悲しみ嬉しさは感じなかった。ただ淡々と時の流れに従った感じであった。

〇復員

昭和二十年九月一日付で、海軍上等水兵 任命

アメリカの最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場へ進駐と言うので、それまでに各自家へ帰ろうと隊内で話し合い、我々は長野県出身者がまとまり四~五人で近所の農家からリヤカーを借受け茅ヶ崎駅まで荷物を運び大変混み合うなか、どうにか電車にのり帰ることができた。自宅へ着いたのは夜の夜中、皆は寝静まって居たが、びっくりして起きてきた。無事帰れたことを喜んでくれた。翌日は、川上、正沢の各戸を挨拶回りした。

〇木曽山林学校へ復学

休学扱いであったのでスムーズに復学できた。海兵団へ入団から復員までの間は学校の同級生も丁度、各所の営林署関係へ勤労奉仕に出ていたので学科授業も同じレベルで勉強できた。

〇反省

規律の厳しさ、団体意識の必要性、連帯責任感等、人生の指針として大いに役立った。

その時代の教育方針というものは恐ろしいことである(洗脳か)。人間一人一人の考えではどうにもならない事である。体勢の動きは誠に恐ろしい。人間、欲と見栄のあるかぎり争いは絶えないと思うが、人を殺し合う戦争だけは絶対にしてはいけない。その点、今の日本はたいへん幸せな時代であると思う。

以上

平成二十一年八月 記
C・H

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Adjoaによる感想

驚きました。私の大伯父が海軍志願兵だったなんて、一度も聞いたことがありませんでした。今では版画を趣味にしている、とても穏やかな大伯父が銃を撃っていただなんて。想像もできません。

大伯父のすごいところは、戦争の経験を憎むだけの対象にしていないところです。海軍志願兵の経験を「人生の指針として大いに役立った」と話しているところから、何事からも学ぶ姿勢を感じました。

大伯父の話すとおり、今の日本は平和で幸せな時代です。やりたいことは何でもできる時代。私もやりたいことはやれるうちにやろう、とこの回想録を読んで改めて感じました。

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